最近の観劇記録①
ささぴちゃんに触発されたので久々に書く。
去年の11月、突然「せっかく東京にいるのに上京する前にやりたかったこと全然できてないじゃん!!」と思い立ち、ずっと生で見たいと思っていた坂東玉三郎(本当は歌舞伎役者さんは呼び捨てはダメで、さん付けとか◯◯丈と付けて呼ぶのがしきたりらしい)を見に行くことにした。
玉三郎の舞台での姿はYouTubeでしか見たことがなかったが、初めて見たのはたしか研修医の頃で、タイでの某長期滞在(知ってる人は知っている)を終えて1ヶ月くらい実家のソファに寝そべってぼんやり過ごしてた時に見たのだと記憶している。
「鷺娘」という演目で、鷺が人間の男性に恋をして女人に化けて近づくんだけど結局叶わず、鷺に戻って最後は地獄で苦しんで死ぬ、というなんともかわいそうな舞台で、雪が降り頻るなか踊り狂う玉三郎がまぁ美しくて一気に虜になりコレはいつか観に行くぞ、絶対上京するぞ、と思ったものである。
歌舞伎がどうやったら見れるのかすら知らなかったが、思い立ったが吉日、こういう時の行動力だけはあるのでWEB松竹というサイトに会員登録。座席のことはネットで調べたら良い席ほどそりゃあいいらしいが、とりあえず初回なのでと1番安かった3階席をゲット。その後、大向こう(「成田屋!」とかの掛け声のこと)は男性かつ大向こうさんという専門の人しかかけちゃダメということとか、ググって調べて最低限のマナーを頭に入れていく。
で、迎えた当日
はーもうすんごい良かった。。。。
美・美・美!って感じ。
歌舞伎座はとりあえず建物がカッコよくて入り口に着いただけで祝祭感がすごい。ウヒョーとなる。
コロナのためチケットのもぎりは無く、自分でもぎって半券を渡して消毒と検温をして着席。永谷園の幕にテンションが上がる。お茶漬けだ!上演時間になると舞台が暗くなって柝(き)の音がテンテンと鳴って、それを合図に領域展開されるが如く異世界に引き摺り込まれる。
この時は玉三郎が口上と、歌舞伎座の舞台装置とかを案内してくださる初心者にも嬉しいツアーと、その後に映像交えた「楊貴妃」の演目。
口上で、「ウワー!生玉三郎だ!」となり、あと声も完全に美しい女性のそれでビビる。女方すげー。
「楊貴妃」は夢枕獏が玉三郎のために作った脚本で、死んじゃった楊貴妃を想って、玄宗皇帝が高力士に頼んで黄泉の国まで手紙を届けてもらうというストーリー。
高力士が会いに行くと玉三郎演じる楊貴妃が現れて、幻想的な舞を踊る。鍛え上げられた肉体から生まれるさらさらとした滑らかで指先まで完全にコントロールされた動き、しかし観るものに緊張感は与えない、というなんか凄絶なものだった。感嘆と愉悦に湧く不思議な高揚感に包まれて夢みたいな時間を過ごす。歌舞伎座のシートもふかふかで気持ちいい。あと鳳凰のマークもかわいい。
その後どうやって家に帰ったかはあんまり覚えていない。
ここから一気に歌舞伎沼にハマり出してしまいました。
今日は長くなったからここまで。
私はまだまだ全然知識ないけどそんな私でも楽しめるし、こんな感じのゆるい楽しみ方でいいんだなと思ってもらえたらハードル下がると思うから、色んな人に行ってほしい。
空想するための教養
内田洋子の「サルデーニャの蜜蜂」を読んでいる。イタリア在住40年以上になるジャーナリスト、内田女史の小説より奇なるエッセイだ。女史はフットワーク軽くいつの間にか相手の懐に飛び込み、生活者の視線でイタリアの歴史、生活、風俗と現地の人々との交流を格調高くも泥臭くも描く。
宅配で頼めるマルゲリータピザ、スーパーに並ぶレトルトのパスタ、成城石井はおろかコンビニエンスストアでも買えるプロシュートやチーズ、飲み放題のワイン、ファミリーレストランで注文できるラザニア、ミラノコレクション、オロビアンコ、エルメネジルドゼニア、ジョルジオ・アルマーニ、プラダ。格安イタリアンチェーン店のサイゼリヤでは、なんとエスカルゴが500円もせずに供され、小学2年生の私の従姉妹の好物で、「うーん、今日はエスカルゴの気分かなぁ」なんてのたまうという。これだけ日本に割合馴染み深い方の国であるイタリアだが、私は訪れたことはない。高校は地理選択だったので実は日本史も世界史もよく知らない。耶律阿保機くらいなら分かる。
今年の初め頃には対岸の火事と見ていた感染症だが、あれよあれよという間に延焼し、私達の今迄の生活を焼き払うが如く一変させてしまった。旅行はおろかただの外出すら制限され、個人的には自粛当初は動画配信サービスに夢中だったが、やはり受け身の娯楽というものは所詮情報が通過して感情にさざ波を立たされるだけでそれが過ぎてしまえば元の均衡に戻る、つまりは全て無かったことになってしまうのと同じで何も堆積しないことが分かった。多少の努力を要するものの方が頭には残る、それで読書が増え夢中になった。
人並みに海外旅行は好きだが毎年行くほどの熱は無い私でも、当面は旅行できないとなるとやたらとヨーロッパへの憧れが強くなり、特に旅や諸外国に関連する書物を手に取るようになった。空想でもいいから意識を当地に飛ばして旅行気分を味わいたい、という考えである。
しかし、空想するにも教養が要ると知った。当然のようにやれリアルト橋だの、やれアレクサンドル3世橋だのやれシテール島への船出だのが出てくるが、調べてみて初めてあの有名なヴェネツィアの橋か!などと分かる。見聞足らずを思い知らされた。
見えているようで見えていないと言えば、表参道の交差点にある灯籠のことを思い出す。地縁者の寄進したものかと思っていたが、表参道が整備されたのに併せて建造されたものらしい。経年変化の黒ずみか煙草のそれと思っていた台座の汚れは、実は1945年5月の空襲の爆風のあとで、そばにあるみずほ銀行青山支店のあたりには熱風に巻き上げられた死体が重なったという。電気メスで灼かれた肉の匂いを思い出す。有名な欅並木も、ラルフローレンの洋館の側にあるものだけが免れたが、殆どが空襲で焼け戦後に植え替えられた。そういう思いで歩くとまた違った風景に見えて来る。物理的には時間は進むだけで無常だが、こうして知識があれば空想と回想を通じて戻ることもできて今そこに現にあるような気もする。
そういうわけで、此の所は今まで得ていたつもりになっていた知識を改めて整理したり、知ったふうな顔でごまかしていた事柄を意識して調べてみたり、机の上には仕事に限らない本やら辞書やらが積み上がっていて大変に気忙しい。読書から派生して美術や音楽、陶磁器、文学、芸能などつい学び出すと人生やることが多過ぎてバカなことやってられない、という気持ちになってくる。勿論貧困な空想で良しとするならそれはそれで結構な話なのだが、世相の変化で人間殺缶詰地獄、どうせするなら豊かな空想・自閉がいいと思ったというわけである。
写真は表参道のArmani Cafeにて頂いた季節の栗のパフェ
麝香
齢を重ねるごとに好みの香りは移ろっていくという。
昔からよく聞くことだが、自分の身に降りかかって初めて、肉薄してそう感じられるようだ。
此の所フレグランスそのものから遠ざかっていたが、梅雨が明けてなんとなく久方振りに香水が欲しいと思った。然し香水を選ぶのは結構胆力がいる。
様々な香りを試しても耐え得るだけの体調と、嗅覚と前頭葉と直感をフル回転させられるだけの精神的余裕が無いと、後日後悔する羽目になるのはもう何度も経験済みだ。
憧れの女性が使っていて、昔からいつかと思っていたのがラルチザンだ。先週伊勢丹で試香し、時間を置いて考えて。結局手に入れたのが、パッサージュダンフェ(=「地獄通り」)である。
名前とは裏腹に、トップノートはホワイトフローラルが香り、ヨーロッパの教会のようなひんやりとした清らかさを感じさせ、時間が経つと乳香とムスクの温かみある香りへ。芯のある大人の女性をイメージさせ、かくありたしと思わせる香りである。こちらは予定通りのお買い物。
その後、時間潰しにと目的もなく立ち寄ったGINZA SIXでFUEGUIA 1833に出会ってしまった。
数年前に六本木の店舗を訪れた時は若すぎた。正直に言うと何が良いのかさっぱり分からず、あれこれ試してみたけれど何れも難しく、使いこなせる自信もなかったのだ。
しかし、今や二十七になる。酸いも甘いも多少は経験し、店員さんとの会話の楽しみも覚え、詩的なブランドの世界観を自ら舵を取って航海できるような気がしたのである。
今回は気持ちの良い接客もあって次々と香りを試させてもらい、その中でもこのhuemulには一嗅ぎで心奪われた。買うつもりは全く無かったのだけれど、気付いたら紙袋を提げていた。
ラルチザンはまだ分かるとして、以前の私なら決して選ばないタイプの香りである。ジャスミンと麝香が馥郁として官能的に香り、しかし全く下卑ておらず高貴であるのに親しみ深ささえ感じさせる。フエムルという名前はアンデス山脈に生息する絶滅危惧種の鹿の名前らしいが、まるで野生の鹿の健康的な腹に顔を埋めたかのような獣臭さ。
『麝香は古来から媚薬として使われている。』
知識としては知っていたが、この焚き付けるような香りに、これもまた実感を持って改めて知るのであった。