くちびるの端に

空想するための教養

 内田洋子の「サルデーニャの蜜蜂」を読んでいる。イタリア在住40年以上になるジャーナリスト、内田女史の小説より奇なるエッセイだ。女史はフットワーク軽くいつの間にか相手の懐に飛び込み、生活者の視線でイタリアの歴史、生活、風俗と現地の人々との交流を格調高くも泥臭くも描く。

 宅配で頼めるマルゲリータピザ、スーパーに並ぶレトルトのパスタ、成城石井はおろかコンビニエンスストアでも買えるプロシュートやチーズ、飲み放題のワイン、ファミリーレストランで注文できるラザニア、ミラノコレクション、オロビアンコ、エルメネジルドゼニア、ジョルジオ・アルマーニプラダ。格安イタリアンチェーン店のサイゼリヤでは、なんとエスカルゴが500円もせずに供され、小学2年生の私の従姉妹の好物で、「うーん、今日はエスカルゴの気分かなぁ」なんてのたまうという。これだけ日本に割合馴染み深い方の国であるイタリアだが、私は訪れたことはない。高校は地理選択だったので実は日本史も世界史もよく知らない。耶律阿保機くらいなら分かる。

 今年の初め頃には対岸の火事と見ていた感染症だが、あれよあれよという間に延焼し、私達の今迄の生活を焼き払うが如く一変させてしまった。旅行はおろかただの外出すら制限され、個人的には自粛当初は動画配信サービスに夢中だったが、やはり受け身の娯楽というものは所詮情報が通過して感情にさざ波を立たされるだけでそれが過ぎてしまえば元の均衡に戻る、つまりは全て無かったことになってしまうのと同じで何も堆積しないことが分かった。多少の努力を要するものの方が頭には残る、それで読書が増え夢中になった。

 人並みに海外旅行は好きだが毎年行くほどの熱は無い私でも、当面は旅行できないとなるとやたらとヨーロッパへの憧れが強くなり、特に旅や諸外国に関連する書物を手に取るようになった。空想でもいいから意識を当地に飛ばして旅行気分を味わいたい、という考えである。

 しかし、空想するにも教養が要ると知った。当然のようにやれリアルト橋だの、やれアレクサンドル3世橋だのやれシテール島への船出だのが出てくるが、調べてみて初めてあの有名なヴェネツィアの橋か!などと分かる。見聞足らずを思い知らされた。

 

 見えているようで見えていないと言えば、表参道の交差点にある灯籠のことを思い出す。地縁者の寄進したものかと思っていたが、表参道が整備されたのに併せて建造されたものらしい。経年変化の黒ずみか煙草のそれと思っていた台座の汚れは、実は1945年5月の空襲の爆風のあとで、そばにあるみずほ銀行青山支店のあたりには熱風に巻き上げられた死体が重なったという。電気メスで灼かれた肉の匂いを思い出す。有名な欅並木も、ラルフローレンの洋館の側にあるものだけが免れたが、殆どが空襲で焼け戦後に植え替えられた。そういう思いで歩くとまた違った風景に見えて来る。物理的には時間は進むだけで無常だが、こうして知識があれば空想と回想を通じて戻ることもできて今そこに現にあるような気もする。

 そういうわけで、此の所は今まで得ていたつもりになっていた知識を改めて整理したり、知ったふうな顔でごまかしていた事柄を意識して調べてみたり、机の上には仕事に限らない本やら辞書やらが積み上がっていて大変に気忙しい。読書から派生して美術や音楽、陶磁器、文学、芸能などつい学び出すと人生やることが多過ぎてバカなことやってられない、という気持ちになってくる。勿論貧困な空想で良しとするならそれはそれで結構な話なのだが、世相の変化で人間殺缶詰地獄、どうせするなら豊かな空想・自閉がいいと思ったというわけである。

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写真は表参道のArmani Cafeにて頂いた季節の栗のパフェ